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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

今拓く華と路と空と風9

今拓く華と路と空と風9 

たそがれていくなかで考えたことなどを書き連ねることにしている。
これも今の現状を書いているので「自分史」として考えている。


創作秘話、「瀬戸の夕立 立石孫一郎伝」 2016/7/31


 この作品を書いたのはもう四十年も前のことだ。田邉康志さんがシナリオ「竜馬惨殺」を書き黒木和夫が映画を取ったときに、立石孫一郎の事を参考にしたといい「倉敷備中騒動記」角田直一が書いたものを教えられたという事が書く動機になった。読んだが、幕末の時代に薩長によくも財政の余裕があったものだと言う疑問がわいた。もともと竜馬については懐疑心があった。全国を旅し、江戸で剣術修行をし、亀山社中、海援隊となるとかれに何処に金があったのだろうかと言う疑問がわいていたころだ。長宗我部の敗残兵で山内家には郷士の身分の彼が、と考えると何かがあると思わない方がおかしくないか。
 角田は郷土史家であり京大を出て、給食弁当屋をやっていた。それを読みもっと違ったものが読みたいと探していたら郷土史家の井上賢一とめぐり合った。かれは純真な人で丁寧に語ってくれるのを納得して聞けた。日頃はペンキ屋をして飛び回ってペンキだらけになっているが汚れがなく親切で話を沢山聞かせてくれた。倉敷の蔵の何石と言うのは米が入る量ではなく、蔵の壁を乾かすのに炭を何石たいたかで決まると言う事、また、当時の髪結は火消しの役を持っていたなど、細かい事まで教えてくれた。
 孫一郎は播磨の二月村の大庄屋大谷家の長男として生まれている。母の出所は作州の立石家、後に夫婦になる大橋家のお恵の母は立石家の娘、と言う事は孫一郎の母とお恵の母は姉妹と言う事になる。
 ここでは、孫一郎と書かせてもらう。が、幼少は恵吉、後に敬之助となり立石孫一郎と名乗るのだが、便宜上孫一郎と書く。
 文久の全国的な大飢饉、幕府は津止め令を出して食料の高騰を抑えようとしていたが、心なき商人はそれを破り江戸大坂に荷を出して儲けていた。
 少し省略するが、そこで下津井屋事件が起こることになる。それをやったのは孫一郎と言う事でかれは倉敷を出奔する。
 それから長州の南奇兵隊に入隊、倉敷代官所、浅尾陣屋を焼き討ち、奇襲を行い、備中の放れ虎となって逃げまどい周防に帰り千歳橋で銃殺をされて亡くなると言うのが簡単に書けば荒ら筋である。
 孫一郎の行動に対して様々な意見が行きかっていたが、私には納得がいかなかった。南奇兵隊士百五十名も脱退させて
事件を起こす、高杉、竜馬の影を見たのだ。孫一郎の一存でそれがかなうだろうかと言うのが私の考えだった。
 四十年も前、今ははっきりと薩長のクーデターとして世の中に知れ渡っているが当時は司馬遼太郎が書いた「竜馬がゆく」の中の竜馬像が正しいという認識が世論であた所為で私の様な考えの人は全くいなかった。
 これをある思惑で書きあげた。下津井屋事件は時の代官の櫻井久之助、孫一郎に命を下したのは高杉、その後ろに竜馬として書いた。
 どのような小説でも何か今までの考えを新しいものに変えなくては書く意味がない言うのが私の持論であったからそのようにした。
 今、立石孫一郎を再評価する動きがみられる。それはそれとして、書いた私には何の関係もない。私は歴史を見、そこでうごめいていた人たちを見、維新後の姿を俯瞰して其の様
に思ったから書いたという事だ。
 あくまで想像の産物として書きあげた。
 今、新しい視点でいてもいいと思うが、前作を壊したくないと言う思惑もある…。

 創作秘話 「あの瞳の輝きとわに」2016/8/01

 今年の八月にこの原作を脚色して朗読劇として公演する劇団がある。
この作品を書いたのはもう四十年も前になる。作家の梅内ケイ子女史がお子さんのPTAの役員をしていた時に「母と女教師の会」の存在を話してくれぜひ其の話をくわしく知ろうと言う事で佐藤豊子先生を尋ねることにした。女史は「片燕」で女流文学賞の佳作に入り作家になろうか主婦で過ごそうかと悩んでいた時だった。
 二人、佐藤さんに約束を取り付けておたくを訪問することにした。まだ昔の家並みが続く幹線道路から少し入ったところに家を構えて住んでおられ、応接室に案内された。昔の子ども達のことと、戦中戦後、の日本の姿を克明に語られた。私には悔いがある、これは私がこれから背負って生きていく頸木の様なものですと、声を絞りながら語られた。
 県北の文教場に奉職していたとき、戦中に一人の教え子が満蒙開拓青少年義勇軍に入ろうかと迷っていると言う相談をかけられた。
 その子に行かないでとは言えなかった。
 この言葉は当時を生きていた人ならば妥当な答えだったろうが、その子を送ったしまった、その事が佐藤さんの一生の後悔、懺悔に苦しむことになったと言う事だった。
 色々の話をつぶやきとともに語られた。
 私にはそれで充分であった。書くテーマが決まり物語が構築し出していた。
 書き手としては微微に入り細に聞くと想像力を固定されるのでそれ以上は頭の中に留めなかった。
 そこからは書き手の想像力の勝負であった。
 この作品は戦中戦後の女教師の姿が見えれば後は子供たちの思いの中に入ってゆけば良かった。この作品で戦争の悲惨さを書くつもりはなかった。子供たちはどのような悲惨な状態でもそれを乗り越える力を持っているという考えがあった。それは動物としての本能のようなものなのだ。苦しみや悲しみ辛さはそんなに子供たちを落ち込んだ状況にはさせないだろうと思っていた。
 私には其の戦争は軍部だけの責任ではなく国民全員の責任ととらえていた。国民全体が戦争をしていた、それを望んでいたととらえていた。なぜなら新聞はありもしない戦果を紙面に載せて国民の民意を洗脳し煽っていた事実は否定できないものだったからだ。
 一人の少年を、当時を象徴する少年、軍国少年として書くことにした。教師も其の戦争に加担していると思った。
 痛まれない様な状況と反戦の言葉もかなり書くことにして取りかかった。
 家人は寝る前に鉛筆を二十本ばかり削っていてくれた。台本を書く場合には語る速さで台詞を書くと言うのが私の流儀であったから万年筆より鉛筆の方が書きやすかった。
朝日が白々と周囲を変えるときに一時間三十分の台本は書かれていた。
子供たちのあの瞳の輝きを絶対に失わせてはならない、そこには夢と希望があふれている。その事を頭の中に繰り返し繰り返し思い書き続けた。
戦争、これは人間が生きてきた歴史の中では不可欠のものだった。が、人間は常に再生して生き続けてきた。
私は大切なのはどのような苦難に逢っても生き抜く人間の命を見つめ続けたいと言う希有があった。
それが書き込められていたらいいと思った。
私も戦中に生まれ戦後の中を生きてきている。人間はそのような状態の時には自然に帰り雑草のような生命力を持ってたくましく大きく育つことを見てきている。
この作品は銀杏の木のごとくすくすくと大きくなってくれと言うテーゼーである。
過去の事を宿題にしてそれを乗り越え人間として其の死生観を持って次の世代に何を残すかと言う問題を問いながら生きてほしいために書いたと言える。
それが例え一人の女教師の悔恨と懺悔を持って生きていくとしても、これから生きていく人達、子供たちにとっては今を生きることが次世代への構築になっていなくてはならないと言う事を認識できる生き方を持った子供たち、瞳の輝きがとどまることなく続きこの世の中を見つめ、子どもたちに輝く瞳を持ち続けられる世の中を構築してほしいという願いが、この作品を書かせたと言える…。

創作秘話 「異聞良寛乾いて候可」2016/8/02

 私は良寛を知らなかった。良寛についての噂は沢山耳に入りこんで来ていた。其の良寛を書こうとしたのは、其の噂に対しての反発としてであった。聖僧、としての良寛、筆の達者な良寛、歌人としての良寛、酷いのは童貞であったという良寛、それらに反旗を翻してみたくなったことが其の動機であった。
 私は良寛を人間としてみたかった。彼も言う、『僧にあらず俗にあらず』その言葉の意味するものは何か。出雲崎の傾いていきつつある庄屋の子として生まれ、罪人の斬首に立ち会い昏倒する気の弱い彼が何もかも捨てて放蕩三昧の後に光照寺の雑役をし、國仙和尚に拾われて得度、良寛として玉島は円通寺での修行、其の後全国を放浪し、生まれ故郷の五合庵、乙子神社の草庵にこもり、島崎は木村宅にて示寂する、其の一生は良寛に取って何を意味したのか。
 彼は、道元の「正法眼蔵」を納め、「只管多坐」の精神である「一日作さざれば一日喰わず」も心に納めていたはずである。
 私はそんな良寛がなぜ、曹洞宗の和尚にならず全国を徘徊し何を会得し様としていたのか、その事に思いをはせた。良寛は仏教には何も求めなくなっていた。歌に書に、自分の赴くままにしたい事をする生き方、自分流に作りこなしていく。それは自然と一体を目指しているようにも見えた。絶望した良寛に取っては悟りを開く、其の願いは薄れて行き、民衆にとっての教えは何かと言うことに重点が置かれていった。朝夕の勤行は何を意味するのかに思い悩んだことだろう。人が生きることそれは定めに沿っているという考えではなく、西行が言う其の定めを自分が流れると言う事に思いついたと言えよう。また、西行の「歌を作ると言う事は仏を作ること」と言う言葉に共感をしたはずである。
 彼は自然に生きよう、國たみの悲しみや辛さや苦しみを総て自分が請け負う事でいいのだと言う考えに達したのではないか。子供のように無邪気に遊び赴くままに生きる、其の姿から、人とは欲心を持って生きることの傲慢さともののあわれを見せたかったという事だと気づいたのではないのか。
 ただの人になりたい、自然でいたい、其の偉大な考えが良寛にはあったと、そこにたどり着くまでは艱難辛苦を繰り返した筈である。円通寺の修行から其の仏の教えを懐疑的に捉えていたのではないのか。そして彼の生き方は晩年になるに従い、風になり雲になり雨になりと自然と道連れになりひとの生き方を指し示したのではないのか。難しい事は何もない、人間は自然に生きることが一番大切なことだとひとの前に己の姿をさらしていく。
 そんな良寛の前に四十歳も年の離れた貞心尼が現われ、そこで良寛はより自分の生き方に対して確信を持つことになる。
 二人の交わした歌はまるで幼い恋の歌が並んでいる。良寛はここで人間の動物としての本能を感じることになる。
 この晩年の良寛はただの男となりただの女に恋をする。
 これも自然なのだと言う事を感じたはずである。
 私は良寛を書く時に彼は何もかも捨てたことでより強く生きられた、自然体な生き方が出来たと思った。
一人の人間としての良寛を書きたかった、今の世に彼の様な精神を持って生きることは難しいことかも知れないが、欲心なく、感謝する心と、感動する自然な生き方を学ぶことが出来た事を付け加えたい…。
注 良寛さんの熱心な研究家の人達があらゆる方向から彼を解きほぐしている、それを読み、また、参考にして今の私の考えが生まれた事をここに添えたい。
 良寛は今の世の宗教のゆく末を感じていた、江戸の末期、仏教は人々に生きることは何かを指し示すことをせずに豪奢になり民衆を見下していたことを知っていた。それは今の世の人々の心に宗教哲学を感じ取らせることのないものになり下がり、ただの商売の道具と化していること、それを良寛は予知していたと言えまいか…。

 創作秘話 「天使の子守り唄」  2016/8/2

 この作品を書いたのはもう四十年も前のことだ。私の住む水島の公害が緩やかになり喘息の死者もそんなに出なくなっていた。と言うのは工場の煙突を高くして煤煙を拡散させ遠くの土地に其の被害が出ている時だった。
 私を文学に導いてくれた、先輩の山本信夫さんの哀悼として書いた。
 山本さんにはアントン・チェホフを私に教えてくれた人であった。其の造詣は近隣では及ぶ人はいなかった。
 この作品の中で私は人間の老いにおける本能を問いたかった。男に取っての本能は自分の血を繋げると言うものだ。そして、女の本能もよりたくましく頭のいい種を持つ男との子孫を残すことであることだと思っていた。
 老いても其の欲望は消えることのない本能の業火に身を焼かれる一人の男を、ヘルパーと言う職業で出会う女性との時間と偶然を書いて問題を提議すると言うものだった。当時私は三十そこそこの若造であった。年寄りのことなど知る由もない立場にいた。
 訪問看護をするヘルパーの事は承知していた。あくまで其の二人の本能をあからさまに書くのではなくそうなる必然を筋立てた。
 夫を事故で亡くし子供を抱えた未亡人を、ヘルパーとして登場させた。
 まだ今のように老人介護の福祉基盤は作られてはいなくて手探りの状態の中に無いよりはましと言う程度の政策の上に成り立っていた。
 この頃私は努めて取材をしている。また、ヘルパーの実態もある程度つかんでいた。
 一人暮らしの年寄りを介護して金品をせしめているというヘルパーの実態も知っていた。また、其の年寄りを慰めることもあったという事も感知していた。
 年寄りの性、今その年になってつくづく厄介なものであると手に余ることが多い其の現実に直面して、よくも其の当時に書けたものだという感慨を持つことがある。若さゆえ、今だったら書けたかどうか、年寄りの性への執着、それが生きることの辛さと重なって悲哀すら感じることをよくも書けたものだと思う。
 この二人を私は鬼と表現した、人間ではなく鬼、なぜ、人間の倫理も理性もかなぐり捨てて本能だけで遇いまみえる行為を鬼畜としか思えなくて書いた。
 今、歳を取って読み進めていたら、真実が見えることに驚愕している。人間の悲しい実存なる行為、これは現代社会においても避けては通れない福祉の現実だった。
 年寄りは行為の対価をそっと落とす。それを子供のためと拾う、其のドライな感情は人間の欲なき自然営みに思える。
 私はこの作品で性を書こうしたのではなく、人間の在り方のひとかけらを明らかにしたかった。
 図らずも、この作品は現在の高齢化、障害者の性に対しての問題に対してのテーゼーとして、そんな大層な事を思ったのではなく、年寄りもただの人間の男女の生きざまを私が歳をとった時に対しての定義であることには違いない。
 歳をとる、それは何を意味するのか、快楽と言う、本能、またはそれを凌駕して生きる人間の業を問いかけることで人間のもののあわれを、悲しみを書き遺しておきたかったという事だ。
 今、其の歳になって遺された本能だけに振り回されている多くの人達が其の業火の中でのたうちまわっている現実を前にして茫然と佇む影が長い事を知る。
 それは国による福祉の枠では到底おさまるものではなく、これからの世代の人達はそれを凌駕出来る手立てを日頃から整えなくてはならない…。

創作秘話 「あしあとひとつ あしおとふたつ」
               2016/8/4

 私が瞽女さをなぜ書いたのか、それは私の青春時代に瞽女さ、盲目の女旅芸人、に出会っていることに起因しているのかもしれない。
 もう五十年も前のこと、赤倉温泉に遊んだ時に、夕餉の膳をつついているたら、風に乗って物哀しい三味の音が流れてきた。何か非常に郷愁を誘うその響きに心打たれて聴いてみたいと宿のお姉さんに聞いたところ座敷に呼べるという事で上がってもらった。瞽女と言う名前の盲目の旅芸人だと言った。私が瞽女さとさをつけるのは親しみを込めてのもの、いいえ、其の人を差別していないと言う事だ。
  座敷に上がって襖を背にして自己紹介をし、お招きいただいてありがとうございますと弁じた。それから世間話を少しして、それではと言う事で三味をたたき始めた。其の音色は彼女の人生を包み込んだかのような哀愁のこもったものだった。
しずかに流れるときの中で其の音は別の世界を作り上げていった。
 私はなぜか緊張していた。発せられる空気は異様な雰囲気を醸し出していた。それを言いかえれば神懸るいうことになる。その事は後に知ることになるのだが、吸いこまれ酔わされていた。私は何処かえ連れて行かれると言う時の流れの中にいた。
 瞽女さはそのころが最後でそれ以降は消えていく定めの中にいた。
 そんな因縁があって瞽女さを書く時に調べた。其の起源は平安時代にさかのぼり、盲目と言う旅芸人は全国に存在していたという事を知った。が、そのころには、越後の高田、長岡にしか残っていなかったのだ。私が書いていた頃にはまだ後女さは存在していたが、それから後継者がいなくなり地元の人達により継承され大切にされ残ると言うことになっている。
 神がかりと書いたが、瞽女さは特殊な天分を備え持っていた。盲目のと言う障害ゆえに常人には捉え見ることが出来ないものが見える、こころ、で感じることが出来そこから予言的なこと、霊とのやりとりなど、また、仏教に深い造詣を持っていることも明らかになった。恐山のいたこ、津軽三味線などの起源は瞽さによって発せられている。
 私は、障害者としては書くことが出来なかった。むしろ、常人より優れたものを包含する人達として見なくてはならない事を感じた。
 この戯曲も瞽女さの常人にないものを醸すことに全力を投入している。
「別れを嘆き悲しむより、其の人と会えたことを喜ぶ」
「障害者と甘えることなく感謝を忘れない生き方を、それ以上の心得を持ち自立して生きて行き道を築くこと」
 それらは決して忘れてはいけない戒めとして伝えられ、厳しい戒律の中で存在していた。
 今の世の中を見て、私は瞽女さを神々しく眺め、其の存在の在り方を、今の人達は省みなくてはならないのではないかと提言する様に書いた。
 障害者に対しての処し方は正しいのだろうか、其の問いかけは今でも私の心を震わせている。
 ひととして生まれ、障害を持って生きる、そこに常人と区別も差別もない。たとえば煙草を吸う、酒を吞む、それくらいの差としてしか私には思われない。
 人権を叫び、被害者を言い募り、路辺にたむろする人達、それは自らが区別をし差別をしている事を気づかなくてはらない。
 どんな障害を持っていても卑屈にならずに我が道を歩んだ瞽女さに心より尊敬の念を発したい。
 また、それを後世に残そうとして活動をしている人達に人間としての道をあるかれている精神を感じている。
 私が書いた盲目の女芸人、きく、が、私の中で成長していく中私はそれに伴って成長しているのかは疑問があるが…。

創作秘話 「ふたたび瞳の輝きは」2013/8/5


この作品は、「あの瞳の輝きとわに」続編として戦後の焼け野原で生きていく子供たちの姿を書いた。私も其の世代に其の中にいたので是非書きたかった。
 あの瞳の…の女教師は登場させているが戦後の日本の現実を書くことで、其の中で生きた子供たちの事を書くことに専念した。
 子供たちはどんな境遇にいても、明るく、笑顔を忘れず、瞳はきらきらと輝いていた。そこには子供としての未来に対しての夢と希望が満ち満ちていた。食べるものがなかったから腹をすかしていたが、これから何が始まるのかと言う好奇心はあふれていた。
 戦争が終わって自由になれたというのではない、爾来子供たちが動物として持っている生命力を遺憾なく発揮していたのだ。何ものにも恐れず逞しい、まるでライオンの子のように悠然と構え未来を見据えていたと言える。
 戦後は酷かったという言葉をよく聞くが、子供たちに取ってそれは的確に該当するだろうか。自然が何の力も必要とせずに再生するように、人間は其の生命力を持って立ち上がる事を知っていた。これは古代から、戦火の中で生きてきたすべての人達にも言える。
 この公演には五十人に及ぶ出演者がいる。その人たちに戦後の悲惨な生活を演じさせるつもりはなかった。それは一つのエピソードとして入れた、テーマを盛り上げるための、専門用語でいえば反貫通行動、戦争で打ちひしがれる姿をそれに使い、子供たちがいかなる環境の中にも友情が芽生えそれは永遠に続くと演じさせた。
 肉親との離別はさらなる社会の中で生きる活力を生むものだと叫ばせたかった。
 出会えたことの素晴らしさを感じてほしいという思いを持ってくれと切望した。
 人間なんて小さな物でこの地球の中ではなにの役にも立っていないのだから、まず、自らを律し前に進み、何が本当に必要なものかを見つけよ。と言いたかった。
 子供たちの生き方、そこに友情を生む素地があること、時間と偶然が結びつけた人と人との出会い、それは人知では測れない奇跡なのだ、其の奇跡を大切にし、感謝してはどうかといいたかった。
 どこにいてもどんな暮らしをしていても生きることには変わりはない、ならば、人として最高を目指そうではないかといいたかった。 
 この作品を書いたのは五十代の半ば、演劇人会議の実行委員、篠田正浩監督の映画製作に参加、新聞にコラムを、小説を連載していた時、子供たち五十人と演劇を作っていた時、私は其の時間を充実したものとして過ごした。
 そんな中、この作品は二時間もの、一晩で書きあげている。
 この後、大変に忙しい時を経て、子供たちを卒業させ、演劇人会議を「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」として立ち上げ発足させ、総ての物を一区切りつけ、六十にして総てを捨てた。
 総ての作品には思い出があふれている、花盛りとは言えないが心に一輪の花を咲かせたということであれば本当にうれしい。
 今、この世の中に、戦後拾ったものを捨てた時代をもう一度考えてみて拾えるものがあったら拾う事を勧めたい…。
 それは、限りなく崇高な友情と言う宝石だと断言できる。
 あの夕陽に真っ赤に焼かれた田舎の駅舎の庭にそびえる銀杏の姿を今も思い興し銀杏に恥じない生き方が出来たのかと自問自答しているのだが…。

創作秘話 「三太郎の記紀」2016/8/5

 我が家には三太郎と言う飼い猫がいた。家人の喫茶の客が拾ったと言って前掛けのポケットから取り出して、
「飼ってやってくんない」と猫なで声で言った。そして、私の急所を掴む言葉を付け加えた。
「猫を飼うと心臓にもいいし、精神の安定、自律神経系統の病には都合がいいのよね」
 家人は其の駄目押しともいえる病と言う言葉ですっかり飼う気になった。
 私の人生は自律神経失調症との戦いで、常に頭痛に苦しんでいてアイスノンを入れた鉢巻は取ることができない状態であったのでそれに効くのならと快く快諾したのだった。
 三太郎が来て心いやされる事は多かった。イライラすこともあったが、見ていてなんだか安らぐことが多くなっていた。
 私が原稿を書いていると横に寝そべり尻尾を私の膝の上において眠るのだった。まるで娼婦のように挙句は言わないが愛情の表現をしてくれた。
 こ奴の愛に報いるのにはどうすればいいか、色々と考えていたのだが、猫の病に効く食品を買い与えることしか思い浮かばなかった。それと言うのも腎臓結石で何度も動物病院に担ぎ込んでいたから少し高いが其の食料を買い与えてそれを防ぐという目的で買うことにした。
 三太郎が私と過ごした四年間は自律神経は暴れることはなく頭痛も時に出ると言う平安な日々が続いた。
 四年目の正月、三太郎はころりと亡くなった。
 私は惜別の詩を書いたが、それでは申し訳ないと台本を書き上演することで哀悼の念を表し、感謝の言葉に変えようと思った。
 猫、三太郎は人間を、人間の社会をどのように眺めていたのだろうか、私は猫語を勉強していないので聞いていないが、色々と三太郎の動作や、物憂げな眼差しを思い浮かべて考え想像を広げて、人間を失笑する、批判する作品を書くことにした。動物としての人間の在り方を、同じ動物しての仁義について書き込んでいった。
 自然に対しての人間の傲慢を猫が注意し諭す物語を書きすすめた。
 それは私が猫になり三太郎になりきってなくては書けるものではなかった。
 言ってみれば私の三太郎への恩返しの愛情表現であった。
 愛猫家の心が読みとれたことも私の進化であったと言えよう。
 書きあげて子供たちと一緒に芸文館大ホールで公演した。
そこにはなくなった三太郎がいた。こころのなかに生きている三太郎が芸文館の舞台で自由にものを言い、跳ねまわっていた。
 これは私が三太郎にささげる惜別の歌である。
 三太郎のぬくもりは、何時も尻尾を私の体の一部においていてくれたそのぬくもりであることが私へのいたわりの行為だったとして今でも心と体に残っている。
 別れ、悲しい事は二度としたくないとの思いで、当分猫を飼うことはしなかった。
 二男の嫁が拾ってきて飼うことになった、九太郎と名付け互いの心の交歓をしたが、永く一緒にはすごせなかった。三太郎と同じ病に倒れた。
 九太郎の物語はドラマにはしなかったが小説としてささげている。
 動物が動物を飼う、それは不遜な行為かも知れない、が、飼う事で猫になることが出来たのは貴重な体験として心の中に存在している。
我が家で飼われた、犬の五衛門、三毛猫の茶子兵衛、三太郎、九太郎、に感謝の言葉を伝えたいが、猫の方がひねくれた人間を否定しているのかもしれないと思うとそれ以上の事は出来ない気がしている…。

 創作秘話 「花筵」 2016/8/6

 この作品は岡山県代表に選ばれた。青年演劇の「冬の流れ」を元にして何回か書きなおし、国民文化祭岡山で公演したものです。
 この作品は東京目黒の公会堂で岡山県代表として出場、公演しいくらかの賞を貰った。
「花ござの里」として水島、玉島の公民館でも公演している。
ここに登場する菊は高梁川の上流から西阿知へ嫁いできて
花ござを織り続けてきた人である。
 この物語を書こうとしたのは、私が職人が好きであるという事に起因している。コツコツと定められたように一つの物を作って生きていく其の人生をこよなくいとおしいと思い尊敬していると言う事である。
 人としての生き方は派手ではないが、其の佇まいはすがすがしいものだ。
 何とか勲章、県の文化賞もこのように一途に生きた人にぜひ差し上げてほしいと思う。
 今、花ござのと出会った倉敷市西阿知は昔のように機の音がしない。昔は夜が明ける前からこの地方は其の織り込んでいく音で包まれていた。
 い草も全国的に植えられていて、氷を割って苗を植え炎天下で刈り入れる。まさに重労働なのだ。それを藺泥にくぐらせて刈った後の田に干していく、乾いたらまとめて其の中から寸法を整え、袴を取り機に入れて織り込んでいく。これは畳表として日本の風土と相まって昔から使われてきた敷きものだった。
 其の産業が本格化したのは明治の跡あたりから日本が近代化していくなかでより使われるようになった。
 昔、幼い頃は其の畳表から立ち上る温かい匂いに心を安らかにしてもらったものだった。
 これは日本人なら総ての人が愛したものである。
 菊は戦中に夫を戦死されている。二人の子供を大きくしながら花ござを織り続けて生きてきた。これはまさに執念としか思われないものだった。夫との約束、ちぎりを結びかわした言葉を心の礎にして黙々と機を織り続けていく。女の一生なのだ。自分のためにではなく、夫との絆のために機の前から離れることはしない、それは至上の愛の行為なのだ。
 近代化され畳表がすたれていく中も織り続けていく其の姿は人間の強さ深さを見せられたようである。
 それを書きたかった。其の姿を広く皆に知ってもらいたかった。
 人が生きる上で何が必要かと問われたら、明日何をするのかが決まっていることが生きると言う事だと答えるだろう。ゆえに黙々と機の前で出来上がる花ござに魂と織り込むことの喜びを知っている菊を書きたかった。愛した人との約束を頑固なまでに貫く菊を書きたかった、女の幸せを、其の意地を貫く思いを書きたかった。
 今は、花ござはなくなりつつある。が、私には菊が織る機の音が耳朶に響いている。其の音は人の営みの中で何が本当の生き方なのかを教えてくれる気がする。
 召集された夫と二人で酒津の桜並木の下を、舞う花弁を献花のように崇めながあるきわかれる二人の心は、それは離別ではなく離れいても断ち切ることのない強固な絆としてある。
 男と女が時間と偶然とに差配されて結ばれる、其の奇跡は永遠に続くものでなくてはならない。
 菊の心には其の自覚が世界の中心のように存在していた。
 昨今、愛と言え言葉は軽く風に流れているが、文明と言う人間の心をないがしろにするものに対して、其の大切さを一人の花ござを織り続ける菊の姿を借りて書き著わしたかった…。
 書き手の心が見る者に十全に届くとは思わないが、一人でも何かを感じてくれれば書いた甲斐はあったという書き手の本望を添えたい・・・。

 創作秘話 「干潮 祭りの夜」2016/8/6
 これを書いたのはもう四十年も前になる。
 当時、全国青年祭なるものが国の行事で毎年東京を開催地として行われ、勤労青年の文化と運動を競うものがあった。
 倉敷の青年たちはスポーツの分野では出場していたが、文化、演劇では出場、地方の審査で最優秀に輝くことが出来ずにいた。何回か挑戦したがそこまでの物は出来なかった。
 どうにか東京で公演してプロの審査を受けたいものだと言う声があり、台本を依頼された。
 私は倉敷を故郷としない、いわば外部者、其の目で倉敷をくまなく歩いた。
当時は「文化の町倉敷」とうたっていた。其の名前がこの町にふさわしいのかと言う思いがあった。この町は大原美術館を創設した大原家の権威は浸透していた。それに抗う事はゆるされないと言う不文律があった。また、美観地区は伝統建造物保存地区として保護されていた。それらは倉敷の文化の萌芽を邪魔していると思った。古いものだけに依存するのではなく、その上にこの町独特の新しい文化はどうしたら出来るだろうかと考えた。
 この作品を書くに及んで早朝のまだ明けやらぬ倉敷の街を歩き、石橋に寝転んで暗さが溶けてゆく町の推移を確かめようとした。空気は漆黒から深い緑に変わりわずかずつ太陽が照らし出す頃には灰色になり現実の静けさを作っていた。石橋は露に濡れ、川面に垂れる柳は水面にしずくを落としていた。路地は入り組んだ家屋に繋がり、其の日の一日を告げていた。
 私はこの倉敷の営みを五十分に切り取ることにした。
 阿智神社の、秋の祭りの夜を書こうとした。この町の親子の在り方を倉敷ならではの物として書きたいと思った。父親と娘、其の誤解と錯覚により現われる断絶、それは果たしてなにを物語っているのか。行き違う心は何処に起因しているのか、大きな愛と言うものに対しての勘違いではなかろうか。
 焼き物しか知らない父と、母に対しての愛情に飢えた娘、そして、父と母の愛の深さを見ることが出来なかった娘。
 それは伝統と言う仕組みの中にうごめいて縛られている倉敷市民の姿を私は思った。ここに大きな隔たりがありはしないかと、親子の確執がすなわち今の倉敷ではないのか。其の理解は何かを作りそれを市民が盛り上げる、其の民度の高目る事に問題があるのではないのか。娘が父を理解しょうとしないと同じように相互の思惑の違いで発展の基礎をなくしていると感じた。
 父は娘に、幼かった頃の姿を克明に語る。病に伏す母を思い倉敷川を一杯に流れる桜の花びらを母に見せようとて 牛乳瓶に入れて持ち帰り見せる。その行為は誠の娘が母を思う行いであり、その思いを持っていた頃に帰るように諭す。
 古来家庭に受け継がれている茶器は使う人の心で色を変える。それは女が使い、その歴史を刻み次に託すという生き方なのだと訴える。この茶器、茶碗を、母が母の生き方で色を変えたものを今度はおまえが生きて感じた色に変える番なのだ、武骨な父は言う。
 父の弟子と、其の恋人、娘の友達、母の幼馴染の友達、それらの人達が祭りの夜になにを感じなにを望んでいるかを書きすすめた。
「伝統だけの町、それにしがみ付いている人達、新しいものを何も生まない倉敷、こんな街にはうんざり、二度と帰らない。もう倉敷のことなど考えてやるものか」
 そういい捨てる娘の友達の台詞に書き手は何を託したかは、みなさんの思いに任すしかない…。
 この作品は、目黒公会堂で公演され、最優秀舞台美術賞、優秀演技賞を貰って帰倉したが・・・。
 倉敷に帰って倉敷を批判したとして文句を言われたという落ちがついている…。
 また、倉敷の青年たちに出会い、青年の純真な心に触れ、楽しい夢を見せてもらい、思い出を貰ったことに感謝をしている。

創作秘話 「現代水軍伝」 2016/8/7

 この作品を書く動機は、水島が企業公害でぜんそく患者が激増して年寄りや幼い子がなくなっていた時に、公害撲滅を掲げ闘争をしていた経験から生まれたと言えよう。また、石油会社がオイルの流出で瀬戸内海が汚染されて、瀬戸内海が死の海になるのではないかと言う騒動が、事件があったことも起因している。
 其の頃工場の何十という煙突からは五十メートルと言う炎が水島を明々と照らして燃えていた。夜でも新聞が読めるという状況だった。水島灘で獲れた魚は臭くて食べられなく、漁師たちはそれを岡山県庁の玄関にぶちまけて筵旗を掲げて抗議した。企業の排水溝にセメントを流し込む、其の計画が盛んに検討されていた。反対デモは日増しに盛んになり、全国の市民団体が応援に押し寄せてきてくれた。
 そんな中、公害反対の闘争をしていた私にもやくざと警察の監視がついた。
 企業は毎晩のように爆発を起こし地なりの様な響きが夜空にこだましていた。
 どこの政党もなにもしなかった。むしろ邪魔をした。
 この作品はそのさなかに書きあげたものだ。
 かつて、瀬戸内海で海賊として活躍、奪略をしていた水軍たちに解決策を委ねると言うものだ。
 因島の村上水軍、本島の塩飽水軍の末裔たちが瀬戸内海浄化に命を張ると言うものを書きあげた。
 これは若かったころの作品で表現、構成に不備があるがそれを推敲することなく載せた。其の頃の私の心情を行間に託しているというのも書き直さない本意だ。
 私たちが公害と戦い、公害追放のために水質の浄化のために洗剤、歯磨き粉、自動車の排気ガスの問題、そして、空に鳥が飛ぶ空を返せ、川に魚が泳ぐ川を返せ、海に人間が泳ぎ水遊びが出来る、豊饒な海の幸を、漁場を返せと叫んでいた時には見向きもしなかった文化人たちが公害の海を題材にして、さも真剣に公害問題を考えていますと言うように言い募り、また、劇を公演する軽薄な集団があった事には人間としていらだちを覚えた。
 その手の物は今も沢山いる。原発を今反対する、なぜ原発が作られる時に、今を理解していれば核廃棄物が人間を滅ぼすものだと分かっていれば、其の時点で反対の狼煙を上げるべきではなかったのか。これは卑劣で卑怯な行為であることに気がつかずに胸を張っている姿は情けなく腹が立った。
 それと一緒で皆其の起点ではなにも言わずに何もせずに、後で反対する、後出しの愚か者たちなのである。
 水軍は俄然と立ち上がるはずだったが、四国の真ん中にトンネルを作り瀬戸内海の水を入れ替えきれいな海にするという物語だった。
 人の心、公害、原発を起こった時に反対せずに今もの申すしかできない人の心、それは汚く澱んでいる。
 この台本は一つのパロディーでありファンタジーなのだが、其の頃の身の危険を感じながらもようやく書けた産物でもある。私は、人を信じて生きてきた、が、人の心の闇は深いと痛感した。そして、保身、と無責任、は人間の常なのかと自問する時がある。が、それでもなお人を信じ覚醒を夢見ている自分がいる。
 曇りの日、雨の日、風の強い日には工場から出る煤煙は大量に空のなかに拡散されている現状は今も目にする事が出来る。
 発展と人間の生活、その事によって自然は常に犠牲になりそれが人間の環境を破壊し人間を絶滅へと導いていることに慄いている。
 そんな日常にだんだんとならされて何も思わなくなることをまた恐れている。が、この作品を書いたという事でかろうじて立ち止まって見ている…。

文学を書く時に必要なものは何か  22016/8/8

 作品を書くと言う時に、なにを準備すればいいのか、これは色々なスタイルがあることだろう。が、書く主題は書く者
の生活から生まれると言う事は間違いがない。
 昔は文学青年に文学的な生活をしろという言葉を投げつける先輩が多かった。また常套句は使うな、同じ表現を使うな、行間に思いを沈めよ、テーマにより文体は作られるので文章の勉強をしても役に立つかどうか、乱読をして忘れよ、等色々と諌められた。
 今過去に書いた作品を読んでみたら、作品を書いた当時が鮮明に脳裏を浸す。そこには其の時の生活、考えがうかがえるものだ。
 よく書けない、書く材料がないという事を聞いた、が、それは俗に言う文学的な生活をしていないということになる。
 さて、文学的な生活とは何か、世界の、日本の動き、其の日常になにを見つめるか、うごめく人間の群れの中に生きる理の姿を見、其の生き物はなぜに生きているのかと自問する、
何のためになにをして生活しているのか、作品の登場する人達の総てにはっきりとしたなにをして食べているのかが分かっているのか・・・。
 よく読んでいてなにをして食べているのか、つまり経済的な状況が分からない人たちがたくさん書かれていることがある、がその人達は生きてなくて死んでいる人達なのだ。まやかしでしかない。
 広範に物を、等しく観ることで個人の差が、性格が、考えが、過去と現在と未来が見えてなくては例え一人の人間を書く時にもそれは書ききれないことだ。
 それらの事を日常普通に生き感じていることがテーマを枯渇させないと言う事なのだ。
 書けなくなった作家を沢山見てきた。作家には狂気と執着が必要不欠なのだ。多作の作家はそれらをうまくこなしている、が、寡作の作家は生活に問題があること気づかない。これは生まれついても物かも知れない。書くことのできる個性と言うべきか。
 では今なぜに文学が不毛な時を迎えているのか、それは貨幣経度にのなかに埋没していると言う事も出来るし、精神生活を疎かにしているという事も言えよう。
 人間に取ってなにが幸せかと言う根源に対しての考えが曖昧になっていてそれを正確に捉え、それをかみ砕いて人に与えることが出来なくなっているのだ。
 テーマが文体を生むように、時代がテーマを作っていること、それを捕まえることのできない生活をしていると言えよう。ここで言う、生活は狂気に近い精神の摩擦と消耗なのだ。
其のことに耐えられる人達だけが作品を後世に遺すことになる。時代を超え時間を継続延長させていきのこるものだ。
 人間と言う普遍的な物を書いていても何時までもとどまってはくれない、書き手は急いでその前に飛び出して書かなくてはならない、それはもう天賦としか言えない。
 安吾は「堕落論」のなかで、宇治の平等院も法隆寺もなくなっても困らない、高速道路か駐車場にすればいい、と書いたが、これは彼独特の比喩である。それを堕落と結び付けるのは性急の極みと言うものだ。作家としての彼を熟知していないと言う事で、彼の生活を、またあまたの作品を手にすると、一種の洒落と理解できよう。
 安吾を出したが、作家と言う人達は狂気執着のためには公然と虚偽を平気で書く、ゆえに作家と言う称号を貰っていのだ、これは彼流に書くと人間と言う生き物の姿なのだ。本性なのだ。爾来人間は我儘で利己的なものだと言う事を彼は言っているのだ。それは彼の考えであり一般的な人間の本能を露呈しているわけではない。このような考えも人間の宿命だといいきっているのだ。
 これは安吾の生活の中から、つまり文学的な生活から発せられたものであり、物書きはそれを容認しまた反発して物を書かなくてはならないと言う事だ。
 作家になる、妄想の世界で遊び生活をするという事は余人の真似のできることではない。はっきりと言うと正常な思考からは作品は生まれないと言う事だ。
 ここまで書いて、物書きになろうとする人達は生活の中に将来を予見することを発見してそれを書く必然変える、其の知恵がないと作家と言う、今では飯が食えない職種にたどりつけないと言う事を肝に銘じて研鑽されんことを願う。
 果たして作家になることが人間として自己満足のいくものかどうかはみなさんの常識に託したい…。


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